大阪芸大 ゲーダイガー と ダイコンフィルム に 庵野監督

先日 ハヤテのごとく! 17巻 を読んでいたら 我が母校のゲイダイガーなるヒーローのネタがあった


そういうご当地ヒーローが出来たんだと思って調べてみたら 1989年にはすでにあったらしい
私は1983年卒業なので知らなかった

SF研から発生したらしいが それにかかわるユニ研なんてのもあったらしいが どちらも私が在籍してた当時はなかった
私が在籍してた頃はCAS(芸大の漫研)があったくらいかな 調べてたら今ではダイコンフィルムも芸大みたいに在校生やらに認識されてるらしいが ダイコンフィルムにかかわってた庵野さん(エヴァやナディアの監督)はたしかに芸大の私と同じ映像計画学科に在籍していたので噂は聞いているが ほとんど学校に登校せずすぐ止めてしまって中退だったハズ(ダイコンフィルム等の活動がいそがしくなってそのままプロになってしまい学校を止めたはず 私の3年くらい後輩になるが) あくまでも大学外の活動 それがいつのまにか芸大内での活動の認識になってるらしい どうもいろんなところでのエピソードが微妙にからまりあって歪んで伝説になってるようだ まあ学生の創作活動は学内学外問わず結局趣味の延長で境界が微妙なこともよくあったし
ダイコンフィルムのいきさつなんかはWiki見るといいかも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0

あとネットで庵野さんのプロフィールみると大阪芸大映像計画学科 放校処分となってるが これ見るとなんかやらかして退学になったみたいな印象うける でも実態は全然別物
今もそうかは知らないが 私や庵野さんがいた当時の映像計画学科は 130人くらい入学してきて卒業するのは半分以下の60くらいしかいないって現実があった 庵野さんみたいに途中でプロになってしまう人もまれにいるが ほとんどが創作に挫折していつのまにやら学校にこなくなって田舎に帰ってしまう人たち つまり学業についてこれなかったオチコボレ 
普通の大学だと入るのが難しくて卒業は出席して適当にレポート出しとけばOKみたいなところあるけど ここは逆 入学は学科試験がないので芸術の素質があれば比較的楽 そのかわりどんなに頭よくても面接と適正検査で素質がないと見なされればどんどん落とされてた(実際慶応大とかはうかったけど大阪芸大は落ちたって人もいたし)
反対に卒業までは遊んでられない 必死に課題をこなして合格ラインの点をもらえなければバンバン留年させられた 毎年10〜20人くらい留年させられて それでもそこから頑張るものもいたがほとんどは挫折して学校を止めてく
また自己管理やスケジュール管理できない者も落ちこぼれていった たとえば造形実習やらデッサンの授業は毎週開かれるが最初の課題説明10分程度さけ聞いておけば帰ってもかまわない 次週までに課題を仕上げていけばいいのだ そんな調子でビジュアルデザインの授業は月1くらいしか開かれない 1ヶ月かけて課題を製作すればいい その製作スケジュールは各自の自己管理にまかされるのだ 実際の映像の年間製作になるともっとアバウトだ 最初のオリエンテーリングから1ヶ月くらいまでにどんな作品を作るかの企画書およびプロットを制作して提出 この段階で教授からOKが出れば脚本製作に入る そして脚本は出来次第教授に提出して採点を受け その後実際の撮影に入り年末までに仕上げて提出し 年明けに作品の上映会が行われるという次第である 提出日などはけっこう自由なので 夏までに仕上げて秋以降は遊んでいる(学業以外の創作活動等)ものもいれば 秋になっても脚本ができず最後に強行スケジュールで撮影するものもいる だから口ばっかのいいかげんなヤツとか自己管理のできないヤツとかはすぐだらけて落ちこぼれていった
逆に庵野さんのように在籍中にプロになってしまうものもいた なにしろ学生は自分の創作活動のために学校へ来ているのだ その方法は問わない プロへの道筋があれば学生という身分をあっさり捨ててプロになっていくのが普通の学校と違うところだ 芸能人になりたい者 漫画家になりたい者 映画&TV製作に関わりたいもの アニメを作りたいもの 
最近見かけないな 挫折して田舎帰ったかなと思ってたヤツがいつのまにかプロになってたということもあった 大学をきちんと卒業してから就職という一般的な常識はなく チャンスがあればいつでも学校やめてプロになるという意識を学生達は持っていた 芸大なんてとこで創作活動やってるやつらだから みんな意欲もってギラギラしてた
挫折して田舎帰ったやつらだろうと チャンスつかんでプロになったやつだろうと 途中で学校へこなくなったものは学校の定めた単位を取得できなかったものとあつかわれ放校処分あつかいになるわけだ


ダイコンフィルムWikiみると 庵野さんはセルアニメ作ったことなく アニメ製作の知識もなく工業用セルを使って描いたとか書かれているが
えっ そうなの?  映像計画学科ってのは 当時 映画 TVドラマ CF ドキュメンタリー アニメって専攻があって完全に分かれるのは3回生からだけど1〜2回生の頃からそれぞれの道をみんな目指して自主的に勉強や活動してた 私はCF専攻だったけどアニメ専攻の者と一緒によく活動したりもしてたし アニメの作り方くらいそういうやつらといればすぐ教えてもらえた(実際アニメ専攻のやつらの個人製作アニメのセル色塗りは人海戦術なので私も手伝っていた) そして学内の購買の画材店で普通にアニメ用セルやセル用塗料も売ってた(庵野さんが使った安価な工業用セルってのは たぶん購買画材店で売ってた普通のアニメ用セルとは別に 学生が練習用に使うアニメセルと同じサイズにカットした安物セルを売ってたやつだと思う こいつにはアニメ用セルにあるパンチ穴がなかったので自分でパンチ穴を開ける必要があった) だから庵野さんがセルアニメの知識なくてもアニメ製作の知識も道具もすぐそろった環境にいたので わざわざプロの現場で技術を習得したというのは単なる伝説のような気がする 実際は知り合いのアニメスタジオに見学で遊びに行っただけというのが真実ではないだろうか